信じることができる機会をもてること ー支え合いー
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この冒頭の想いは、あの有名な志賀直哉の『小僧の神様』を読んだからだ。
少し話しは飛ぶが、幼少の頃小僧寿しという持ち帰りのお寿司屋さんが近くにできた。
知らない人はいないと思うが、とても不思議な名前だと思っていた。
そして、この小説を読んでやっとこのお店の名前の由来を知った。
そして読まれた方ならわかると思うが、前掛けの下に両手を入れた小僧は小説の中で、仙吉と名前をもらっている。だが、仙吉にお寿司を奢ることになる人物はAと書かれ、名前がない。
そしてこの短編小説の中での心理描写はこの仙吉、A、そして最後に作者の志賀直哉で終わっている。正直、小説家が登場して自分の気持ちを語って終わるのを初めて読んで驚いた。
なぜAは仙吉にお寿司をご馳走してやりたいと思ったかは、奥様、友人の議員Bとの話しの会話や、小さな娘がいることで表している。
しかし、お寿司を奢る仙吉にはなぜ奢ろうと思ったか、仙吉がどうしてお寿司を食べたいと思ったかの二人のやりとりが全くない。偶然の機会の再会が訪れたときに、Aは仙吉にお寿司を食べる機会を与えたのである。
仙吉は、なぞこのような幸運が来たのか考えたがわからず、最後にAは神様だと信じ、これからも何かの時にまた幸運が巡ってくるかもしれないと思う。つまり、心の支えを持ったのだ。
しかし、Aはこの小僧の気持ちの変化を知らない。自分は奢ってやったという、上から人を見下すような気持ちが恐らくは湧いて、変に嫌な落ち着かないものなのだろう。
なぜAは悪いことでなく、仙吉小僧に手を差し伸べたのに、嫌な気持ちになるのか。
それは、仙吉と、そして自分の心と対話がないからと思う。
もしも、仙吉が自分が食べてみたかった寿司を食べれる夢のようなことが実現して、それが生きる支えにすらなったとしれば、Aの気分は非常によいものとなったであろう。しかし、直接二人で心情を話しをしてしまったら、小僧の仙吉のAは神様にはならなかったかもしれない。
知らないからこそ、一生懸命今までのことを考えて仙吉自らが出した結論ではあるのだ。
では、この親切なAの気持ちに報い、今後も同じように何かできることを誰かにするには、どうするべきだったろうか。
それは、その秤屋での仙吉のこれからの仕事振りを見ればいいのでなないだろうか。きっと仙吉は神様が見てるからと、今まで以上に一生懸命働くようになったに違いない。
そして、それを知り得ることでAは、また別の機会に他にも多くの恵まれないことへの自分でできる何かの助けを進んでやるように変われたのではないだろうか。
一生懸命働いてお金持ちになるだけでなく、家柄でこの議員Aのように持っているケースもあるだろう。必要なところを見つけて、その余裕を回すこと、それがその人の幸せであり、使命なのではないだろうか。
作者の志賀直哉は考察した結論を書かなかったと告白して、この話しを締めくくっている。
何故ならば、神様はいないのではなく、善意の人へ施しするという見下す行為の気持ちでなく、支援してあげたい、助けてあげたいという優しさの気持ちで、人は支え合って、現実のこの世を生きていると言いたかったのだと解釈する。
非常に奥が深い志賀直哉の小説に今やっと読める機会に巡り会えたことに感謝し、自分も何ができるか、自己満足でなく、誰かのためにメッセージを渡せられるよう行動していきたいと思う。
追記:小僧寿しの名前の由来はこの小説からきているのだそうだ。この会社の社長は小僧のような庶民では手が出せないお寿司を、誰もが食べれるようにとの思いだったと。
(参照)
企業組合リ・そうるけあ
代表理事 高山和 たかやまあい