今の私たちに足りないのは『哲学』すること?
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何か疑問に思った時、調べますか?人に聞いてしまいますか?
さらに、もしもその答えが後で違っていたら、出典をもう一度確かめて、なぜ間違ったかを確認しますか?それとも、〇〇さんが間違えた(自分のせいではない)と周りにステレオしますか?
後者は自分の考えが全くないことがお分かりでしょうか?この手法をよしとしている方を観察していると、その誤った答えを導き出した人が自分に謝ったかを重要視します。つまり、本質の問題解決をどのようにすれば改善されるかはどこにもないのです。そして、自らは初めから最後まで何も考えていないのです。
今の政治のニュースなども、とかく誰々が悪いで、どうしてそのようなことが起こってしまい、そうならないようにするには、根本どうしたらいいかの話題になっていない気がしてしまいます。話せば長くなる、きちんと知るには大変だからでしょうか。しかし、本当に大切で解決しないといけないことは、根本から立て直さないといけません。
古代の哲学者ソクラテスの有名な言葉に『善く生きること』そして無知の知があります。
これを聞いて、どうして?と問答が思い浮かびませんか?何かの問いを与えられたら、自分はこう思うと答えること、そしてそれがどうして導き出されたかを相手に説明できるベースがあること、これこそが大切なのだと思います。
私もつい何か問われると、答えを即答してしまおうとしまいますが、時には、一度相手の問いを飲み込んでから、相手の立場で答えるのではなく、自分がどう考えるかを発してみること、これがすなわち考える→哲学することになるのではないでしょうか。
これはすなわち、誰かのせいにするのではなく、言葉一つ一つに自分が責任を持つということです。
「〇〇さんがそう言ってた。」これは自分はそうは思ってないとも、そう思ってるとも後でどちらにも展開で転べますね。もっと言えば、この発言の信憑性は全くありません。なぜなら、発言者は〇〇さんでないからです。そしてもう一つ、あなたには〇〇さん言ってないかもしれないけど、私には、そう言ってきたよという優越感も見え隠れしています。でも本当は、〇〇さんとそのことを話したときに、実は2人でそこにいないあなたのことをこう考えて、こう話したんだであれば、実があります。しかしどうでしょうか。この後者の発言の方が信ぴょう性があるのに、前者の方が気になりませんか?
それは不安やモヤモヤ感で終わるからでしょう。つまりは結果が見えないからです。もしも大切だと思うことで、不安、モヤモヤを感じる時は、考える→調べる→誰かが発信している、言ってるで本当と思わない、そのでどころがどこかを確認する→そして最後に、自分はどう考えるかが大切です。
忙しいのにそんなことできないと思わず、気になったこと一つから始めませんか?
何か人生が変わるかもしれません。哲学することの第一歩です。
リ・そうるけあ
高山和 たかやまあい