音のない世界が当たり前とは – リ・そうるけあ

音のない世界が当たり前とは

カテゴリ:お知らせ

音のない世界が当たり前とは

お知らせがない世界とニアイコールな気がします。

 

先日、インターネットの手話検定試験を受験しました。こちらは、会場受験と違い、受験票も通知が来なければ、試験時間の日程のリマインダーもありません。自分で意識して受験を忘れないようにしないといけません。

 

とても普通のことなのかもしれませんが、今の世の中、こちらが再通知が普通のことが多く、その環境に慣れてしまっている分、今回のように全くの野放し状態は結構驚きでした。

ただ、非常に丁寧なところもあって、インターネット環境受験に問題がないか接続テストを事前にするよう、促していました。数日前に試していたものの、再度受験前にこのチェエクをしてから本番に臨みました、今思えば、これがおそらくは原因なのですが、テスト環境の終了のボタンを押していいものか、少し不安だったこともあり、そのまま、本番環境に入って、試験を開始すると、どうもテスト環境はそのまま、5級のテストにつながっていたのか、声が聞こえてきてしまいました。本番は4級受験で、問題も当然違いますし、開始のタイミングも違いました。

本番で残り何分ですなどのアナウンスが二重に別の時間を言われたり。かなり戸惑いの中の受験となってしまいました。

 

何とか混乱の中、試験が終了しこのようなことがあったと報告しようかとも思ったのですが、この環境チェックをしているのが。聾唖のかたなら、確認ができないなと思い、伝えるの断念しました。

 

会場受験との違いというか、聾唖の方は何かあっても、自分で何とかするということにきっと今までも、これからもただただ慣れ。置かれた環境なのかなと考えてしまいました。

 

今は確かにインターネットでいろいろ検索したり、SNSで繋がったりできます。そして電話リレーサービスというのがあることも最近知りました。耳の不自由な方と、健常者の電話連絡を手話通訳の方が間に入り伝えるものです。

 

自分の置かれている環境が日常になっている中で、自分と違う日常のもの、非日常を考えながら環境を整える難しさを今回の試験は実体験として教えてくれたものなのかと思います。

 

ただ思うのです、健常者の自分ですらこんなに手続きが煩雑で複雑と思った、家族の死亡の手続き、一体どうやって乗り越えているのでしょうか。もしかしたら、やれずに断念してしまっているのでしょうか。心は耐えられてるのでしょうか。じっと我慢しているのでしょうか。

 

手話を通して、今まで届かなかった人にお知らせの回覧板を回していければと思います。

 

リ・そうるけあ

高山和 たかやまあい